

朝6時に目覚ましをかけたが、その前に布団の外に出た。荷造りは昨日の夜ほとんど終わらせた。3週間お世話になったリシとこの部屋とも今日でお別れ。2週間ほどこもって刺繍の制作と文字書きの往復をしていた。集中できる環境が何やり有難かったし、リシが作ってくれるご飯がいつも本当に美味しかった。そしてなにより農業の未来は明るいと確かめることができたことが一番の収穫となった。
出発予定時刻の8時を10分過ぎて、リキシャが迎えにきた。リシに礼を告げ、出発した。初めて乗るリキシャから、幾度か歩いた坂道と茶の木で埋め尽くされた山々を見納めた。感傷に浸る隙もなく、リキシャは激しく揺れる。蛇行する道をなぞる左右だけでなく、段差のたびに上に飛び上がり、お尻が浮き、天井すれすれに頭が持ち上がる。
半刻ほどでコタギリのバス停に着いた。運転手のおっさんがその辺の人に「コタギリ行きのバスはどの乗り場だ?」と聞いてくれて、助かった。乗り場はいくつかあるが、ローマ字の表示どころか文字というものが一切存在せず、どれも一緒に見えた。バス停の横にこじんまりとした茶屋があり、チャイと揚げドーナッツを頼んだ。朝空っぽのお腹にぴりりと辛いチャイと甘いと思いきや辛い揚げドーナッツでインド式のモーニングアタックをきめているとすぐにバスが来た。


おっさんにお礼を言い、ぼろぼろのローカルバスに乗った。狭くて暑かったけど、窓のないかっ飛ばすバスから吹き込む新鮮な風を吟味していたら、退屈なんて微塵も感じなかった。道は広くなり、肘の先は木々からビルへと都会に変わり、目的地のコインバトーレが近づいてきた。行きで使ったバス停で降りようかと思ったが、一応誰かに聞いてみることにした。通を挟んで隣にいたおっさんに
「空港に行きたい!」というと、
「まかせろ、ついてこい。」
と頼もしい眼差しで手綱を持ってくれた。優しい。街の中心らしき場所でバスを降りた。荷物が重くて暑くて、ずんずんと進むおっさんの背中を必死に追いかけながら、知らない町を歩き、人がたくさん立っている場所に着いた。バスの停留所っぽい。「4番のバスに乗れ」とそそくさとつげて、おっさんは人混みへと消えていってしまった。
世界 の大半はいい人だと信じて、頼っていい。スマホを頼りしてもいちいちスマホにありがとうだなんて感謝しないけど、人に助けてもらえば必ずありがとうと感謝する。タッチスクリーンよりもシェイクハンズ。
対して待つことなく4の数字を下げたバスが向こうから近づいてきた。前の口から飛び乗った。見渡すと周りは女性ばかりで、みんなこっちをみている。はい、日本人ですという顔で立ちながら肩から荷物を下ろせる場所を目視で探していたら、目の前の女性と目が合った。
「ここは女性車両だから後ろに行って!」と言われ、合点した。バスの後方へ行き、席についた。
さっきからずっとバス全域の天井に埋め込まれたスピーカーから爆音で音楽が流れている。街中を走るパーティーバスなのか。聞き流すとか気にしないことはできないレベルで音がでかい。席に座っているおっさんは音に合わせて指でリズムを打っている。
最初はしかたなしに聞いていたけど、熱い車内で不規則に揺られていると不思議にも段々と、なんかこれはこれでいい曲じゃんと錯覚なのか本当にそう感じているのか分からない曲をいくつも聞いた。インディアンポップスのヒットメドレーに体を揺らしていたら30分が5分のように過ぎ、空港の側に到着した。側とはいえど、歩いて15分。時間は十分にあるしリキシャを使うのはもったいないと思い、灼熱の道路を歩き始めたが、5歩目ぐらいで汗だくになった。途中のカフェでマギーとバナナシェイクを補給し、再出発した。空港に辿り着いたころには、全身ずぶ濡れだった。
カウンターでバックパックを預け、ショルダーバッグを下げて手荷物検査へ向かった。スキャンの後、荷物検査するから待つように言われ、順番を待った。こういう時はなぜだか時間がゆっくりに 感じる。もう結構待ってるんだけど、という具合になった頃やっと検査員に呼ばれた。中身を全部ひっくり返し、ひとつひとつ調べていく。裁縫道具の蓋を開け、針と鋏が持ち込めないから捨てろと言われた。そんなはずはない。これまで毎度機内に持ち込めたと抗議をしたが問答無用で捨てるという感じだったから、かなり面倒だけど預け荷物にすることにした。使い慣れた裁縫セットの中身はひとつも捨てたくない。通路を逆走し、もう一度カウンターまで戻り先ほどと同じ手続きを済ましてようやくゲートを通過した。
そこからは何事もなく、3時間の空の旅。飛行機がデリーに到着したのは日没前の19時ごろ。暑さはやわらいでいるものの湿度が高く、もう一度汗だく。ものすごい人混みで驚いた。つい最近この空港の屋根がごっそり抜け落ちたニュースを思い出しながら地下鉄の入り口を探した。都会の移動は疲れる。スマホ決済が使えず毎回窓口へ行き、チケットを現金で買わなきゃいけないとか、乗り換えで一駅分ちかく歩かされたりとかでGoogleマップの倍の時間がかけ、21時ごろホテルがあるSouth Extension駅にたどり着いた。
物乞いのとなりでカップルがいちゃつき、ハエ集る浮浪者をフードトラックが照らし、いろいろな人があたりに座って夜を過ごし ていた。駅から歩くこと10分、マップが指差す場所まで来たが、本当にここであっているのだろうか?夜のせいか建物の外観から漂う空気に写真の面影がどこにもない。一応車がすれ違えるぐらいの広い路地に面しているけどあたりは真っ暗で風貌はホテルというより、どうみても古い社宅。
スマホのライトで足元を照らしながら3階まで階段を上がると、受付っぽい机に気怠そうにした若者が座っている。ライトをつけたままスマホを見せると、ここで間違いないようだ。愛想もない様子だったが、支払いを済ませ、部屋の鍵を受け取り、部屋の扉に鍵を差し込んだ。ドアノブのプレートは半分取れかかっている上に、鍵はするりと回らない。少々コツがいるタイプのやつ。丁度いい位置に扉をずらすと鍵が回ってくれた。
部屋は薄汚れたコンクリの壁に、大きなベッドとかなり柔らかめの破れたソファー、クローゼット、まではいい。部屋全体の空気が重く圧迫感がある。窓が一つもない。どこを探しても見つからない。ソファーの後ろは布で隠されているが、そこをめくっても壁に張られた木の板が露出して見えるだけで、窓ではなかった。写真では自然光に照らせれた綺麗な部屋に可愛いベッドとソファーが映っていた。この部屋はどこ?朝から移動に疲れ、今 から別の宿を探す気力なんて一ミリも湧いてこなかったため、ブッキングドットコムの写真映えに騙された自分の爪の甘さを悔やみ、諦めるしかなかった。
それなりに時間をかけて選んだつもりだったが、写真はあくまで二次元のイメージだと言うことを忘れ、見極められなかった自分に落ち度がある。よくよく考えたら、安くて綺麗でかわいい個室なんてあるはずがない。シャワーを浴びようと思い、バスルームの扉を開けると、薄汚い便器と一緒に不快な匂いが鼻を殴り込んできた。リシの家で清潔で快適な環境にすっかり慣れていた自分をリセットするいい機会だと思い、ちょろちょろとながれる水シャワーの下に立ちゆっくり汗を流した。
時計の針は10時を過ぎてしまったが、辛いドーナッツと甘いドーナッツ意外何も食べていない。近場で適当に済まそうと思い、ホテルから一番近い北インド料理屋さんに入ることにした。米とカレーを注文し、食べ始めたら、なんかうっときた。味が不味いわけじゃないんだけど、油っこくてスパイスが嫌味を助長するようで、美味しくなかった。空腹なのに食欲が削がれ全く手が進まなかったが、目の前のご飯を残す訳にはいかないと思い、なんとか3分の2まで平げた。
銀皿の上で液状のカレーと米が合わさり、いつもならおじやのようにスルスルと喉を通るはず。でも、今日のは何か違う。離乳食のような歯応えのないに飽きを感じているのか、スパイスの許容量がキャパオーバーになってしまったのか。不意にもうスパイスを食べたくないという感情が沸き起こってきた。インドでスパイスが食べれなくなることは、日本で醤油や味噌が食べれないのに等しい。はたしてスパイスと距離を置くことなど可能なのだろうか。ウエイターのおっさんに「量が多かった。ごめん。」と謝り、不安いっぱいに店を出た。
ひとまず明日はカレーを休むことにしよう。
翌朝、目は開いたけど部屋は夜と同じ真っ暗で、朝の気配はちっとものなかった。ドアの下1センチを除き、ほぼ完璧に遮光されている。ひとまずトイレに行こうと思い、半目のさらに半目でトイレの扉を開けると、ぎらりと朝日が飛び込んできた。まず、トイレに窓があったことに驚いた。トイレに吊るされたカーテンの向こう側はベニヤ板ではなく窓だったのか。朝日の清々しさがユニットバスを満たす悪臭とせめぎ合っていた。複雑な気持ちを抱えな がら浅い呼吸で用を足し、なるべく急いでトイレから出て、扉を閉めた。また夜に戻ってきてしまった。部屋の電気を付けたが、当然夜の光の加減と全く同じで、時が止まっている異次元空間のように感じた。宇宙飛行士ってこんな気分なのかな。幸いここは陸の上、窓を開ければ外に出れる。そそくさと身支度を整えて、夜の部屋を出た。
両替、タバコに充電器、トイレットペーパーなど、必要な買い物しようと思い、中心部付近まで行ってみることにした。たまたまEVのリキシャを見つけ、乗ることにした。プリウスのように静かな音で滑らかに進む。いい。他方、乗り物で埋め尽くされた大通りの空気は史上最悪で呼吸を躊躇するほどだった。不快と快適の両方にバランスよく揺られ、目的 地の両替所にたどり着いた。リキシャにはそのまま待ってもらい、両替所まで行ってみたが、閉まっていて誰もいない。すると隣の建物からおじちゃんが出てきて、別の場所を教えてくれた。
その後も同じリキシャに何件か用事を付き合ってもらった。お昼ご飯を食べようと思い、付近にあるカレー以外の店を探したら、すぐそこにサブウェイがあったので入ることにした。欧米料理を期待してナショナルカンパニーのサンドイッチを注文したが、店員の女性に英語がちゃんと通じなかったのか、スパイシーと書かれたシールが貼られたソースを私のサンドイッチにかけているのを見た気がした。気のせいだろうか。

不安大でトレーを受け取り席につき、一口食べた。カレー味とまではいかないにしても、定番ミックススパイスとチリが全ての食材の味と食感を包み込んでいる。しかし100歩譲ってサンドイッチはカレーよりはるかに噛み応えがあって、味は無視して咀嚼している感触にフォーカスをあて、おいしいと思いこみ飲みこんだ。

夜は中華料理屋に行った。値段はインド料理屋の3倍近くするけど、たまにのご褒美と自分を甘やかすことにした。キノコと野菜のスープと青菜炒めを食べた。高いくせにそんなに美味しくないけど、なぜかものすごい安心感に包まれ、美味しく感じた。中華風味がスパイス疲れをすっかり癒してくれた。しばらく中華を食べたい、いやむしろ中華しか食べたくないという感情が芽吹いたがが、すぐに踏み潰した。そんなことしてたら破綻しちゃう。でもとりあえず明日も中華にしよう。
そう決めて、浮き足で店を出た直後、風にのったスパイスの香りが鼻を掠めうっときて、常夜の巣穴へ急足で帰った。宿の門をくぐると愛犬のクロによく似た犬と目が合って、無性に家が恋しくなった。